コックカワサキの魂

魂は死んでないんじゃないの〜?

絶対に誰かが言っている、日々を過ごすための言い訳

 最近は特に何ということが起きるわけでもなく、鬱屈とした日々を送っており、友人から「何してる」と聞かれても「生きている」という返事しかできないような日々が続いている。こんなに何もない日々を送ってきたことがないわけではない、学生時代などは夏休みが始まった当初は宿題のことを忘れ、友人と遊ぶわけでもなく、学校生活ですり減らした精神を回復するかのように何もしない日々を送っていた。高校生まではその休みの期間が少なく、休んでも罪悪感を感じないほどに休み以外の期間を忙しく過ごしていたために休むことに言い訳をしなくてもよかった。

 しかし大学生になり宿題もなく、自分でやることを探さないといけないことに加え、休み以外の日々と休みの運動量の乖離が少ないために休むことに罪悪感を感じ始めた。大学生になりたての頃など周りも同じ様に休んでいたこともあり、「なにもしない、ということをした」なんて屁理屈を立てて休むことを肯定した。しかし周りが就活などで休みの期間でも忙しく過ごし始めた中、人よりも遅く動いていた私は「なにもしない、ということをした」という屁理屈よりも強いロジックを考える必要に立たされた。周りの人間からも「将来の事を考えて動くべきだ」「今まではひねくれててもよかったが、もう世間が許さない」なんてことを言われ始め「普通」に合わせる必要が生じ始めた。

 自分のことは別段特別であるとは感じていなかったが「普通」に媚びることはなにか違うと思っていた私は「就活」という渦の中に飛び込むことを拒んでいた。そんな中周りの人間がその渦の中に飛び込み結果を出したり、それに乗じてその他のことでも結果が伴い始めると元々あった自分の中の無力さが大きくなっていった。そして友人の「なんかしろよ」という言葉に反発するかのように無駄に日々を過ごした。そんな中で私が無意に過ごす日々に価値を与えるためにあるロジックを見つけた

「すべての出来事は必然的であり、無駄がない」

これだけ聞くとなにか宗教的な匂いを感じるかもしれない、その気はあるのかもしれない、むしろ宗教ってこんな風に生まれるのかもしれない、なんて思いながらこのロジックを考えだした。残念ながら私は特定の宗教を信仰しているわけでもないし、これから宗教を建てようなんて気もさらさらないのでこのロジックに宗教的ニュアンスはない。ただこんな風に考えなければおかしくなってしまうからこう考えているだけである。今あなたが聞いている音楽、読んでいる本、見ている動画、ベットに寝ながらスマホを触る時間、個々で見れば「意味がない」行為かもしれない、しかしなんでも何かしらですべてつながる、あなたが何の気なしに見た映画が好きな女の子が見ていた映画かもしれない、共通の話題で盛り上がるかもしれない、それがきっかけになってその子と結婚するかもしれない。

 そんな風に考えれば、今無駄だと感じながら寝ている時間を有意義にできるのではないだろうか。言い訳のようにこんなことをつらつらと書いておいてなんだが、絶対にもう誰かしら私と同じことを言っているであろう、まあ言うことが同じであってもそれを考えるまでの過程が違うであろうからどうか許してほしい。