コックカワサキの魂

魂は死んでないんじゃないの〜?

きしょい動機

 最近はある程度出かけるようになったために、世の中に対する劣等感のようなものも薄まり、健全な精神状態で日々を過ごすことができている。最近よく行くのは上野公園だ。不忍池の雰囲気が何となく好きだ、昼でも夜でも良い。更に上野という場所にいる人種も良い。昭和から時が止まってしまっていて、昭和の価値観でいまだに生きてしまっている老人たち。意外に若者がいないように思えるが、東京芸術大学があるので少し風変わりな若者もちらほら見かける。明確に「どこ」とは言えないのだが、私はなんとなくこの二つの人種に共通点があるのではないかなんてことを考えながら、上野に通っている。

 このブログを初めて四〜五ヶ月程度になる、想像できたことではあるが、あまり閲覧数というものが伸びない。まあこのブログと連結したTwitterのアカウントを作ったのも最近だし、特に周りの人間に宣伝しているわけでもないので伸びるはずもないことはわかっている。わかってはいても自身の指で「ブログ 閲覧数 伸ばし方」なんて文字を入力してしまっていた。まあ結果的に一つのサイトを見ただけで恥ずかしくなって調べるのをやめたわけだが、そのサイトの中に「まずは長く続けてみよう!」なんて当たり前のことが書いてあって、翌々考えてみるとまあ不定期ではあるがずっと続けることができているのでもうその文言に満足して調べるのをやめた側面もある。まあ飽き性の私がこれだけ続けることができていることに価値があって、閲覧数が伸びて、文章の仕事で食べていくことができるようになるなんてことは副産物程度に考えておけば良いのだと、改めて思い直した。

 元々他に書くことを決めていたが、ブログの閲覧数に対する考えをつらつらと述べていたらまあまあな文字数になってしまった、あまり長すぎても後から読み返す時に面倒なので今回書くつもりであったことは気が向いたら書くとしよう。(しようって語尾はなんだか偉そうで気持ち悪い)

絶対に誰かが言っている、日々を過ごすための言い訳

 最近は特に何ということが起きるわけでもなく、鬱屈とした日々を送っており、友人から「何してる」と聞かれても「生きている」という返事しかできないような日々が続いている。こんなに何もない日々を送ってきたことがないわけではない、学生時代などは夏休みが始まった当初は宿題のことを忘れ、友人と遊ぶわけでもなく、学校生活ですり減らした精神を回復するかのように何もしない日々を送っていた。高校生まではその休みの期間が少なく、休んでも罪悪感を感じないほどに休み以外の期間を忙しく過ごしていたために休むことに言い訳をしなくてもよかった。

 しかし大学生になり宿題もなく、自分でやることを探さないといけないことに加え、休み以外の日々と休みの運動量の乖離が少ないために休むことに罪悪感を感じ始めた。大学生になりたての頃など周りも同じ様に休んでいたこともあり、「なにもしない、ということをした」なんて屁理屈を立てて休むことを肯定した。しかし周りが就活などで休みの期間でも忙しく過ごし始めた中、人よりも遅く動いていた私は「なにもしない、ということをした」という屁理屈よりも強いロジックを考える必要に立たされた。周りの人間からも「将来の事を考えて動くべきだ」「今まではひねくれててもよかったが、もう世間が許さない」なんてことを言われ始め「普通」に合わせる必要が生じ始めた。

 自分のことは別段特別であるとは感じていなかったが「普通」に媚びることはなにか違うと思っていた私は「就活」という渦の中に飛び込むことを拒んでいた。そんな中周りの人間がその渦の中に飛び込み結果を出したり、それに乗じてその他のことでも結果が伴い始めると元々あった自分の中の無力さが大きくなっていった。そして友人の「なんかしろよ」という言葉に反発するかのように無駄に日々を過ごした。そんな中で私が無意に過ごす日々に価値を与えるためにあるロジックを見つけた

「すべての出来事は必然的であり、無駄がない」

これだけ聞くとなにか宗教的な匂いを感じるかもしれない、その気はあるのかもしれない、むしろ宗教ってこんな風に生まれるのかもしれない、なんて思いながらこのロジックを考えだした。残念ながら私は特定の宗教を信仰しているわけでもないし、これから宗教を建てようなんて気もさらさらないのでこのロジックに宗教的ニュアンスはない。ただこんな風に考えなければおかしくなってしまうからこう考えているだけである。今あなたが聞いている音楽、読んでいる本、見ている動画、ベットに寝ながらスマホを触る時間、個々で見れば「意味がない」行為かもしれない、しかしなんでも何かしらですべてつながる、あなたが何の気なしに見た映画が好きな女の子が見ていた映画かもしれない、共通の話題で盛り上がるかもしれない、それがきっかけになってその子と結婚するかもしれない。

 そんな風に考えれば、今無駄だと感じながら寝ている時間を有意義にできるのではないだろうか。言い訳のようにこんなことをつらつらと書いておいてなんだが、絶対にもう誰かしら私と同じことを言っているであろう、まあ言うことが同じであってもそれを考えるまでの過程が違うであろうからどうか許してほしい。

かっこいい人

 想像以上に閲覧数があることに気を良くし、まさかの二日連続で投稿、まあ基本的に書くことが見つかったら書いているものなので2日連続で投稿することもあれば一ヶ月以上投稿しないこともある。肩肘張ってやってても続かないだろうしこれくらいの力感が一番適切、推敲とか校正も全くしてないし☆

 さて、今日は人と会って刺激を受けたので、自分を鼓舞するついでに書き残しておきたいと思う。今日あった人は大学卒業後就職せずに自分の夢を目指している人で、家庭環境なども決して良くはない中、大学生の頃からバイトもしつつ大学も行きつつ、夜には専門的なことを学びに行くという軟弱者の私からすれば考えも及ばないような地獄の日々を送られていた方で、当時は大学の同級生に対して「何も考えてなさそうでうらやましかった」と思っていたらしい。それもそのはず、大学2年から夢のためにバイトもしながら努力することしている大学生などほんの一握りであろう、大体は遊ぶことしか考えていない時期である、そんな時期から夢のために切磋琢磨していたなんて聞いた私は自らの大学2年生の頃を思い出し、もう一度19歳の頃からやり直したい心持ちであった。その人の知り合いにも会社務めをやめ、映像系の学校に入り直して夢を再度追いかけ始めた人もいるらしく、話を聞いているだけでもその人が輝いていて、もう何もかもを捨て、やりたいことだけをして生きていきたい気分になった。

 かくいう私は夢、というほどの明確な目標はないにしろ、このブログの中でも言っている通り何かしら創作に携わることをしてみたいと常々思っていた、しかし今日会った人のように目標に向けての努力をすることをせずにいたために、自分の中にあるやりたいことを「夢」として語ることもできず、目指すこともできなかった。今日そういった人に会うことで改めて大層な「夢」や「目標」を掲げることもいいが、努力しなければいけないということも思い知らされた。ある意味就職とかよりも大変なことなのかもしれない。

 自己啓発本のような内容になってしまったが、私は割とそういった類のものをバカにしている節がある、そんな人間でも夢を追いかけている人と会えばこんなことを言ってしまうのだからすごい。

 このブログとリンクしたTwitterはじめました、pコック毒島で検索してみてください。

承認欲求の満たし方について

 まずは感謝から述べさせてください。前回の記事なんですが今までからすると考えられないくらい多くの人に見ていただいて、お気に入りなんかもしていただいたようでもう何から感謝していいかわかりません、何から何までありがとうございます。夢に一歩近づけた気がします。

 さて、前回の音楽と記憶についての話題の続き。音楽と記憶、というのが結びついていて、音楽を聞くとそれを聞いていた時の記憶が思い起こされる、なんてことがあるということを述べたが、これに加えて「匂い」というのも記憶と結びつく要素としてあると思う。音楽に比べて当てはまる場合が限られるが、音楽だけではなく匂いによっても記憶が思い起こされることがあると思う、私も彼女に振られたての頃はよく同じ香水の匂いがすれば後ろを振り返ったものであった。

 最近は又吉直樹氏のオンラインサービスに加入したり、panpanyaという漫画家を新たに知ったり、札幌記念3連単が当たったりした。割と話題に尽きない日々であった。そんな中で『ショートショートショートさん』という漫画を買った。端的に言えば承認欲求が満たされない痛いOLの日々を書いた漫画なのであるが、痛々しいと感じながらも、どこか自分に重なるものもあり、憎めないところもある。もちろんそんなわけでこの私も承認欲求が満たされぬまま日々を過ごしているのだが、その『ショートショートショートさん』では冬コミに自作の小説を出し、色んな人(数は多くないが)に買ってもらったことで自身の承認欲求が満たされた気分になる。これを見て私が気づいた所は、「承認欲求というものは自らをさらけ出すことによって満たされるのではないか」である。そんなこと当たり前であろうと、思う方ばかりかもしれない、私もこれを気づいたときには「当たり前のことじゃないか」なんて感じた、しかし得てして、承認欲求の満たされぬ人間というのは私含め自意識が高く、自らをさらけ出せていないと思うのだ。「素人の私が本なんか出したって、、」きっとそんなことを思ったはずである、痛いほどわかる、その自意識を乗り越えて本を出した結果承認欲求が満たされる、自身をさらけ出さずに他人から認めてもらおうだなんて、そんな体の良い話はあるわけないのである。認められたいなら、さらけ出すしかない。

 そんなわけで今回このブログを書くに至ったわけであるし、以前の様に臆すことなく、エッセイというタグをつけさせていただいたのである。

音楽と記憶

 今回、初めて日記というタグの他に「エッセイ」というタグを付けてみることにした、不遜甚だしいかもしれないが、誰も見ていないからいいのである、このブログの中では「エッセイスト」ということにしておこう、自分で名乗るのは気色悪いものであるが。

 さて、私がこのブログに書き留めていることは常日頃から感じていた自分への違和感であったり、なにか忘れたくないような感覚を書き残して忘れないようにするために書いている。この一つ前の「一目惚れをしたことがない」という話題など正にそういったことであるが、これについて友人に話してみたところ「しなくていいだろ」と一笑に付されてしまったのだが、誰もがそんなことを気にせず生きているのだろう、要は「気にしすぎ」というやつなのだろうか。

 今回もそういった「気にしすぎ」の一種かもしれないが自分の中で忘れたくないと思った感覚なのでこうして書き残そうと思う、誰かに共感してほしいとか誰かに見てもらおうなんて気持ちは毛頭ない、自分がこの感覚を忘れなければいい。さてその感覚というのは、音楽に関してである。私は昔聞いていた音楽をふと聞き直してみたりすると、当時それを聞いていた情景が蘇ったりする。それは大抵小中高の下校中に見えていた景色であったり、音楽を聞きながら読んでいた本の内容が思い出される、見落としていた記憶を音楽などで可視化してそれによって記憶が見える様になるのだ。逆かもしれない、いろんな所に落としてきた曲を聞き直すことによって曲がその場所での記憶を思い起こさせてくれる、といったほうがなんだか自分の感覚をきちんと言語化できている気がする。

落とした曲の中に記憶があって、それを拾って開ける(聴き直す)とその中にガシャポンのように景品(記憶)が入っている。

もっと表現の幅を増やしたい、今の言語能力ではこの感覚は表現しきれていない気がする。

一目惚れについての一考察

 私は一目惚れというものをしたことがない

 ここで言うところの一目惚れというのは人間に対してだけであって、モノに対しての一目惚れでではない。まあ簡単に言えば「女性をひと目見て好きになって声をかける」という体験をしたことがないということである、周りの人でもこういったことをしているのは見たことはない、そのため私は「一目惚れして即告白」という行為自体は創作の中でしかないものであると感じるようになってきた。

 それはなぜか

 まず最近こういった一目惚れという事象が少なくなっていることの理由としては時勢的な影響があるであろう、現在殆どの人間がマスクをしており女性の顔の全体像を見るというのは女性の下着を覗くに等しいほどの難易度となっている、そのため顔を見て一目惚れということに発展することがなくなっている。まず時勢が私の一目惚れ道を妨害しているのだ。

 次に、これは根本的な問題であるのだが、顔が恋愛においてすべてを占めていないということがある。女性と付き合いたいと思う時、女性に対してある種の「親しみやすさ」というものを感じて付き合いたいと感じるものである、一目惚れというものはこの「親しみやすさ」を除外した恋愛形式となっている、そのため私は一目惚れというものをしないのであろう。女性を顔だけで判断しない、女性からすればこれほど良い男性はいない、是非皆さん言い寄ってもらいたい。

 この文はナンパしてる男性を見てその軽薄さを非難するために描きました。

人はラーメンでもなんでもない

 私自身、大それた人間でないし、人に対してなにか大きく上回る物があるわけでもないのにこう思ってしまうことがある。

薄い

 何度も言うが、私はなにか大業を成した人間でもないし、誰かに何かを言えるほど大それた人間であるわけでもない

 果たして何が人に対してこのような思いを抱かせるのか

 その前にまず、どのような人間に対して私が「薄い」と感じてしまうのかについて説明したい。例えばハロウィーンになって渋谷に行って馬鹿騒ぎしている人々や成人式で暴れる者を見て「薄い」と思うことがある、大学に通っている時も、全てを知った顔で物申してくる者や面白くもない安いジョークを本気でオモシロイと思って見せびらかしている者もいた、これらの全てに対して私は一貫して「薄い」という判断を下す。

 なんとなくおわかりいただけたであろうが、ここで言うところの「薄い」というのはすべからく「人間性」という観点での「薄い」ということである。では、この人間性の「薄さ」とはそのような部分に起因するのであろうか、正直私が「薄い」と思うような人間はまず「バカ」であるように思う、ここで言うところの「バカ」とは正真正銘のバカであり、生きていく上での教養を持ち合わせていない人間のことを指す、最低限学校で習うことを頭に入れている人間であればハロウィーンに渋谷にも行かないし、成人式でも暴れることはないであろう、教養とは経験であり、自らに取り入れる「教養」は体験せずとも「経験」になりうる。その経験値のなさに私は「薄い」という烙印を押すのだ。

 次に私が「薄い」と感じる人間に共通するものとして、オタク気質ではない、というものがあると思う、どうもオタク気質ではないものは、薄く広く物事を知ろうとし、結果として「薄く」なる。ミーハーな人間などまさにその典型例であろう、その当時のはやりに乗って、物事を見ていく、しかしそれが廃れるともはや見向きもしなくなり新たな流行りに乗る、流行りの波が高い時間というのは流行りの物事に関して深く知るには難しく、流行りの物事の一部を知るに過ぎない、私はそれが非常に気に入らない、実に即物的な人間である。最近で言えば「中川家You Tube」を最近見てます、などと言っていたものは、プレゼンで面白いと思われるあんが出ないと嘆いていた、それもそのはず、中川家を面白いと思う感性は別として「お笑い」というものに対して深堀りをしていないから、そのような悩みにぶつかるのだと私は相談を聞くふりをして考えていた。

 悲しいかな、私が「薄い」と判断を下すものは往々にしてコミュニケーション能力が高く、社会の中では高い評価をくだされることが多い、しかし本当に「厚みのある」人間というのはもっと他のところに居るのだ。

 こんなことを藤本タツキ「ルックバック」を読み触発されて「Don't  Look Back In Anger」を聞きながら書いている私のほうが「薄い」人間なのだろうか。